目に見えるものばかりを追いかける現代社会で
目には見えないこころへの処方箋をあなたに
自然が持つ、生み出す力を携えて
僕らは響きあう命と共鳴する
— 医療の軸を東洋医学としたきっかけは何があったのでしょうか。
この場所「つゆくさ医院」を立ち上げたきっかけにも繋がるのですが、元々僕は救急医療の現場にいました。応急処置として患者さんの手当をする際に鎮痛薬を処方しても、症状を一時的に止めているだけで病そのものは改善していないんですね。救急医療で必要とされる対症療法と、医療本来の在り方を模索する中で、病気や身体の不健康を根元から治すためには食養生につながる漢方治療を中心とするべきだという考えに至りました。漢方がすごいなと思うのは葛根湯なんかは2000年前から存在する薬です。科学で調べても最近になってやっとその成分の一部が解明されたばかりでまだ未知数なことばかり。
漢方薬を本格的に使い始めた当時は腫瘍ワクチンの研究をしていたのですが、客観的な数値として効果を検証をすることも大切ですが、僕はデータになっていない自然界の法則を伝えることに力を注ぎたいと思うようになっていきました。そして漢方治療によって、西洋薬では解決できない不調からの劇的な改善を次々と目の当たりにする実体験を経て、漢方への興味がさらに深まっていきました。
医学の中にも「サイエンス」と「アート」という考え方があります。サイエンスとは物質的で科学的な「見えるもの」のことで、アートとは心や気という「見えないもの」のことです。西洋医学は「見えないもの」以外は存在しないというスタンスの医学ですが、東洋医学では「見えないもの(陰)」の方が圧倒的に多いと考えます。実際の世の中は、人間には「まだ見えていないもの」の方が圧倒的に多いですよね。医療における「まだ見えていない」部分、つまりアートの部分に僕はもっと比重を置きたい。健康とは何か、病とは何か。治療以前の根本的な部分に僕自身はフォーカスしたいんですよね。それはEvidenceBasedMedicine(証拠に基づいた医学)といった西洋医学の方法論では、限界が見えてきてしまったというのが、東洋医学に傾倒し始めた理由です。

— 自然に寄り添って生きることは理にかなっていることかもしれませんね。精神的にも肉体的にも健康というのは具体的にはどのような状態と考えますか。
「健康」というのは、自分自身に起こった心身の不調を自分自身で改善できる状態のことです。からだもこころも、自分自身に起こった「症状」というシグナルを早い段階で認知して、それを修正する手段を意識的なり、無意識的になり持ち合わせている状態が「健康」という状態です。つまり「自己修復力」が「健康力」となるのですが、漢方薬というのは健康力を向上させるのにとても有用です。だからこそ根本治療になると僕は考えています。例えば頭痛に対してケミカルな鎮痛薬を使っても、その原因がどの生活にあったのかわかりませんよね。ところが漢方治療では効果のあった漢方薬の種類によって、その原因となっている生活がわかるので、同じ失敗を繰り返さないようになり、健康力が上がっていくんです。
— なるほど。東洋思想では「中庸」という考えをよく聞きますが、健康という側面でも「中庸」であるということは重要なのでしょうか。
そうですね。免疫力とひと言で言っても、免疫力は強すぎるとアレルギーや膠原病(自分自身の細胞を免疫細胞が攻撃してしまう病:リウマチなど)になってしまい、弱すぎるとガンや肺炎などになってしまいます。こころの面でも、不安や抑うつといった感情は強すぎても弱すぎても人間は生きていけません。クリシュナムルティという思想家の『既知からの自由』という本にも書いてありますが、既に知っていることから自由になる。これが正しいと思い込んでいる固定された観念があると恐怖や怒りが生まれます。僕自身はハイブリットであることが非常に大事だと感じていて、医学でも西洋医学だけ見ていたら違いがわからないわけです。西洋医学と東洋医学、自然と科学、陰と陽など2つの指標があると自分の中でバランスが取りやすくなります。何でも中庸は大切なことだと思います。
— 先ほど「医学の中にもサイエンスとアートという考え方がある」とおっしゃいました。自然であることや健康であることと、例えばアートの価値の1つである「美しさ」には関連性があると思いますか。
美しさとは「自然法則に共鳴しているもの」だと考えています。芸術作品というのは自然法則の中のある部分をトリミングして別の空間に提示することでその美しさが認識される行為だと思っていて。例えば日の出や夕焼けを見て美しいと思ったり、焚き火の火が揺れている様子をずっと眺めていたくなるような。アーティストのオノ・ヨーコは“空よりも美しい芸術はない”と語っていたり。このように芸術に触れ、自然や宇宙の法則を感じることで、その先にあるものを自覚していく。美しさを医療で考えた時も、化学的なものは即効性があるので効果が高いかもしれませんが、あくまで人工的なものなので、ずっと化学的なものだけを使い続けていると自然法則の中からは崩れ落ちてしまう。そこで美しさはなくなってしまう。健康と美しさは密接に関わり合っていて、健康になっていくと人は美しくなっていきます。医療自体の美しさ、それは「楽しさ」ということもできると思いますが、そういうことも重要だと思います。それは外科手術とか、西洋医学にも通ずることですね。

— 面白いですね。人間も自然の一部。そう考えると、人間は美しさを頼りに健康に近づいていくとも言えますね。
例えば音というのは発生すると永遠にその影響は残っていく。発生するものに敬意を払うとでも言うのでしょうか。茶道で言えば所作も同じだと思います。一つ一つの動作に責任を持つようなイメージです。世界の物質をバランス良く整えていくことが大切だと思います。芸術は触れる触れないではなく常に“在るもの”。周りを滑らかな環境に整えていくために、美しいものを意識していくことは大切だと感じます。作品と言うよりは生き方自体を芸術的視点で見ていくような感覚です。
— 先生が音楽を作る時の感覚にも近いのではないでしょうか?作曲をする際のインスピレーションはどこから得るのでしょうか。
僕は陰陽トロピーという思想を中心に考えているので、インスピレーションは「目的」によって弱まると考えています。だから、特に音楽をつくるときには、なるべく「目的」を持たないように努めています。シンプルですが目の前にあるものに集中して音を出す。僕は演奏家ではないので、音を出したらコンポーズしていく。インスピレーションのようなある種の霊的なものを音にするまで、自分はとにかく「器」になるようにしています。なるべく自我を無くして器のように様々な事象を受け止める。
— 「器」。先ほどおっしゃっていた「バランス良く整えていく」ためには必要な過程なのですね。音を出したくなる、作曲をしたくなる瞬間はありますか。
僕の場合は自分が無になって器になって出した音を、次は意識的に解釈し直すのが好きなんです。作曲家の時は作曲家をやりきって、医者として活動している時など別の立場で自分の曲を聴きます。作曲家ではない時間に曲を聴くことで、その時に印象に残った部分から次の創作のインスピレーションが生まれます。大学にいた頃は、現実世界から抜け出して美しい場所に行きたいという欲求があったので、エネルギーのままに取り組んでいましたが、今は無理せず自然発生した時に曲を作るようになりました。
— 質問が前後しますが、ご著書『からだとこころの環境』では「脳の陰性化」のために「呼吸のような音楽」や「流すことで静寂が得られる音楽」としてアンビエントミュージックを薦めていらっしゃいます。そしてご自身で作曲しているのもアンビエントミュージックですね。
最近はアンビエントミュージックを聴く方も増えたと思いますが、僕はある種の「防衛」だと思っています。例えば日常にありふれた機械音は少なからず人々のストレスになっているはずなんです。元々は自然の音に囲まれて人類は暮らしてきたわけですが、便利な世の中になる一方で、本来は存在しなかった人工的な機械音、例えばモーター音のような一定の音が鳴っていると人間はストレスを感じます。僕自身も人工的な音に包まれた環境の中で静寂を得たいという欲求から音楽をつくっていました。アンビエント・ミュージックは騒音に対する防衛、あるいは逃避行為として、産業革命の頃から発生してきたと考えています。なので、現代社会のバランスをとる意味で自然発生的なアンビエントミュージックがあると思うんですよね。
— 今後の取り組みとして音楽と医療をさらに繋げたい思いはあるのでしょうか。
日本人は病院やレストランなどの音環境に対する意識が、西洋人に比べて低いと言われています。そこを調整したいですかね。まぁ、日本人というよりアジア人は全般的に音に対する配慮が弱いと感じます。元々日本人は右脳と左脳の使い方がポリネシア系の人たちと違うと言われていて日本語は擬音語がすごく多いです。日本語自体に母音が含まれていることが影響しているのですが、音に意味を感じることができる国民だと言われています。例えば「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という松尾芭蕉の句がありますが、あの感性は日本人独特だと言われています。ただ現代社会では自然の音がどんどん聞こえなくなってきていることで、日本人的な感性が鈍っているのだと思っています。ホテルやレストランへ行くとサービスや内装は素晴らしいと感じる一方で、音に対する配慮が驚くほどできていないところが多いなと。
— この音は合っていないという違和感はどこで感じるのでしょうか。
病院やレストランという不特定の人が来る場では、耳障りなものに対して感じますね。耳障りというのは、侵襲してくる音に対して感じます。主義主張、目的のある音と言えば良いでしょうか。僕が禅の思想で最も好きなのが「妨害なき相互浸透」という仏教学者の鈴木大拙氏が唱えた考え方です。禅は自らのスペースで行うものであり、他者を妨害してはいけない。その考え方が禅とアンビエントミュージックの最も共通するテーマだと思っています。4月に東京の白金にあるPottariというギャラリーで陶芸家と展示をするのですが、3つのサウンドシステムを使った構成を考えています。それぞれの音楽はお互いの音楽を妨害せず、その場の音の出会いが一期一会を演出するインスタレーションを予定しています。
— 非常に興味深いですね。禅の話がでましたが、医院のコンセプトに茶の湯のエッセンスがあります。茶の湯のどこに魅力を感じますか。
茶道に関しては詳しくないのですが、中国から伝来したものが、日本独自の発展をして日本の文化となったことにとても興味を持っています。漢方薬もお茶ですからね。「つゆくさ医院」の名前は露地草庵から来ています。この診察室は千利休がしつらえた二畳の茶室「待庵」からもインスピレーションを受けています。
僕はアンビエントにしても漢方としてのお茶にしても、意図せず繋がりを持つことが多いです。基本的に何に対しても目的を持たないようにしていて。目的を持たない方が変に歪曲していかない。今、目の前にあるものに対して純粋な気持ちでに全力で取り組むことができます。その結果として音楽があったり医院があったり。ただ、医療でも漢方でも音楽でも、総じて自然との関わり、つまりはピュシスが持つ「生み出す力」をもっと見つめていきたいところは一貫しています。僕が携わるどの分野においても、自然が持つ生み出す力に敬意を払いながら僕なりのやり方で提示していきたいです。
— 東洋と西洋、自然と科学。先生の中では陰陽太極図のように全てが繋がって存在し、二項対立に捉えるのではなく、両極を知ることで「調和」を保ち、そのさきに心身ともに健康なよりよく生きる人の在り方を感じます。つゆくさ医院は医療の新しいカタチを提示していますが今後の活動も楽しみです。
<コメント>
このアルバムは僕のOpitopeというユニットのレコード会社からリリースされた音楽で、僕の人生を変えたアルバムでもあります。アンビエント・ミュージックの定義はいろいろありますが、呼吸のように意識しなければ気にならず、意識すれば美しさを感じられる環境としてあれる音楽、音を流すことによって静寂をもたらす音楽だと、僕は考えています。勉強や就寝前など、美しい静寂の時間を得たい方は流してみてください。
Profile
Tomoyoshi Date / 伊達 伯欣

1977年ブラジル・サンパウロ生まれ。調布にある西洋医学と東洋医学(漢方)のクリニック『つゆくさ医院』の院長。アンビエント・ミュージシャンとして、これまでに国内外から23枚のフルアルバムをリリース。著書に『からだとこころの環境- 漢方と西洋医学の選び方』(ele-king books)『つゆくさのしおりシリーズ』(つゆくさ文庫)。
【Tomoyoshi Date Words & Music】
【つゆくさ医院】
【おいしい漢方茶「onsa」】
【共同企画】
株式会社 無茶苦茶(Mucha-Kucha Inc.)
"Respect and Go Beyond"をミッションに日本の総合芸術である「茶の湯」
With the mission of "Respect and Go Beyond," the company is developing an art production business that raises the spirituality and aesthetics of the tea ceremony by "reinterpreting" the comprehensive Japanese art of "chanoyu" by crossing it with various domains such as technology and street culture.